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【SPA!高石智一の清潔な人々/第4回】時給

働けば働くほどお金が減っていく。清掃をすればするほどお金がなくなっていく。これは比喩でもなんでもない。現実だ。

 

スーパー銭湯で清掃のアルバイトをしている。勤務開始時刻は朝六時。汚れてもいい衣類に着替えたり、清掃用具を準備するために、その十五分前には現場に着いてタイムカードを押すよう言われている。そうなると最寄り駅にはさらにその十五分前、五時半には到着しなくてはならない。

高石智一

自宅から始発の電車に乗っても間に合わない。そのことに気づいたのは面接を終えて採用が決まったあとだった。後先を考えずに行動に移す悪い癖がある。そんな不都合も自業自得であるがゆえ、「すみません、始発に乗っても間に合わないみたいです」とは言い出せないまま働き出し、今も言い出せずに働いている。

 

バイトの前日は、スーパー銭湯がある駅のカプセルホテルに泊まることにした。バイトのための前乗りである。

宿泊料は、ネットで予約すれば一泊三千円だ。対して清掃バイトの時給は千円。三時間働いて“とんとん”である。そしてそこから現場までの往復の交通費を引くと五百円の赤字になる。週に二日、一生懸命働いても毎週千円損をする。

仕方ない、と昼食を抜いてその赤字をちゃらにしながら仕事を続けていたが、徐々に「損をしている」ことに耐えられなくなってきた。

頭を捻り、カプセルホテルで「カプセル」を利用しないという選択を思いついた。そのカプセルホテルには仮眠スペースがあり、そこで雑魚寝するプランであれば三時間で千円。さらに延長三時間の利用代は五百円ゆえ、深夜二十三時に入店して朝五時までの滞在は計千五百円で済む。これでバイト代から交通費を引いても千円が手元に残るようになった。

でも悲しいかな、早朝三時間働いて千円の黒字ということは、時給にして三百三十三円なのである。我ながらアホであるなと思うし、実際アホになる数字が並んでいる。

 

「給料の時給換算だけはやめておけ」

そう言われたのは、以前勤めていた編集プロダクションでのことだった。編集プロダクション、略して編プロと呼ばれるそれは、出版社からの依頼を受けて雑誌や書籍を編集する制作会社で、つまり出版社の下請けである。

内定をひとつももらえないまま大学を卒業してしまった僕は、まだ出版業に携わるという目標を捨てきれずにいた。転職情報誌で「未経験歓迎」と謳うその編プロを見つけ、なんとか業界に滑り込む格好となった。

想像以上の激務が待っていた。映画雑誌の編集業務と言えば聞こえはいいが、下請けに仕事の裁量はなく、クライアントである出版社の言いなりにならざるを得ない。企画書やページの構成案、原稿を出版社の編集者に提出するのだが、その返事を黙ってひたすら待たなくてはならない。夜の二十四時を過ぎ、返事が来ないな、と思って出版社に電話してみると担当者はすでに帰っていたなんてことも多々あり、「ふざけんなよ」という言葉を何度も何度も飲み込んだ。深夜に煙草を吸いながら寝落ちして、「なんか熱い」と思って目が覚めたら着ているセーターが燃えていた。長時間労働の日々だった。

 

毎月、給料日になると会社の経理担当からその額と一カ月の勤務時間が記された紙が配られる。入社して半年経った頃には勤務時間が450時間を超えていた。今月もよく働いたな、という感慨とともに、時給にするといくらなのだろうと電卓をはじく。

333.333333333

アホになる数字が並んでいた。

 

隣の席で、同じように時給を計算していた先輩が「田舎のマックでバイトするよりも安いじゃん」とうなだれていた。

そこをたまたま通りかかった上司は、「時給換算だけはやめておけ」と吐き捨て、喫煙室に入っていく。十年以上働いているベテラン編集者である彼もまた同じように帰れない毎日を送っていた。髪の毛は脂で光りペタンコにつぶれている。何日帰っていないのだろう。

追いかけるように喫煙室に入り、「月に何時間働いてるんですか」と訊ねてみた。五百時間を超えていた。十年後の僕はこれに耐えられるのだろうか、と青ざめた。でも彼は「まあ、好きでやってることだからね」と笑った。苦笑いのようで、でもどこか誇らしげだった。

 

清掃も、好きで始めたことなのだ。

浴槽のタイルをブラシで洗う際に鳴るジャッ、ジャッという音は耳の奥が気持ちいい。泡立った浴槽をバケツいっぱいに汲んだ水で流していくのも爽快感がある。窓ふきは汚れが見るからに落ちていくし、「ワックスかける! ワックスとる!」と『ベスト・キッド』の要領で窓を拭けば修行としても楽しめる。もちろん、どの作業も心底疲れる。息も切れる。「体を鍛えることも兼ねてバイトしてる」と言う鍼灸師もいるくらい肉体を酷使する労働だ。だから楽じゃない。でも今までに経験してきたどんな仕事よりも気持ちいいのだ。

「お金より大事なものがある」なんてきれいごとを言いたくはない。それでも、お金のことばかりにとらわれていると他に得ているものが見えにくくなる。初めての経験に対する感情の揺れや、身を置いて初めて知る景色だったり、そういうものを僕は取りこぼしたくない。

 

先日、ある出版社から、「お金」をテーマにしたムックのBOOKコーナーに掲載するものとして、おすすめの本を選書してほしいとの依頼があった。お金に対する興味が薄く、その類の本にも疎いため断ろうと思ったのだが、「ポジティブなものでもネガティブなものでもいい」と自由度が高そうだったので引き受けた。「お金から自由になる」というテーマで三冊選んだ。『無駄なことを続けるために』(著・藤原麻里菜)、『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(著・スズキナオ)、『「山奥ニート」やってます。』(著・石井あたら)は、いずれも読み手の「お金のために働く」という従来の意識をひっくり返してくれる強さがあるので機会があれば読んでみてほしい。

 

バイト前日。カプセルホテルに入る前に松屋に立ち寄るのがお決まりのコースになっている。かつては優雅に叙々苑で肉を焼くことに憧れた。実際に叙々苑は肉もサラダも美味しいので否定する気はさらさらない。ただ僕は、2500円の叙々苑ランチより660円のカレギュウを好む自らの舌を誇りに思っている。

あなたはカレギュウのうまさを知っていますか。仕事を終えたあとのサウナの気持ちよさを知っていますか。たった一冊の本が価値観を変えてくれることを知っていますか。

お金だけでは得られない何かを知っている。もうそれだけで十分じゃないですか。

 

 

[高石智一(追っかけ漏れ太郎)プロフィール]

高石 智一

(撮影/杉原洋平)

1979年、千葉県生まれ。週刊誌・書籍編集者。雑誌は主に週刊SPA!、担当書籍は『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ)、『夫のちんぽが入らない』(こだま)、『死にたい夜にかぎって』(爪切男)など。趣味はサウナ。

Twitter : @takaishimasita