【SPA!高石智一の清潔な人々/第2回】初出勤
地獄があると知ったあの頃から僕はうまく眠れていない。
小学生のとき、父親からことあるごとに「地獄へ堕ちるぞ」と叱られた。
例えば給食を食べ切れずに残してしまったとか、友達とお寺にロケット花火を打ち込んだとか、そんな些細なことでも「地獄行き」を告げられる。
僕はいずれ地獄に堕ちるのだと刷り込まれた。
だから夜、布団に入って目をつむると、血の池に突き落とされたり針の山を登らされている自分が鮮明な映像として浮かんできて、その恐怖から眠れなくなってしまった。
今日も眠れない、と天井を見ていると、木目がグニャリと歪んで暴れ出す。
箪笥の上に飾られたフランス人形に目を向けると小刻みに震えている。
暗闇における目の錯覚だろう。
でも目をつむっていても開けていても怖いのが夜だった。
眠らないと永遠に朝は来なかった。
朝が夜に取って代わる時間にスーパー銭湯での清掃バイトは始まる。
ジジッという音とともに吐き出されたタイムカードの印字を見る。
5:46。
編集者としてはこの時間帯に仕事を終える日も少なくない。
空は藍色に橙色が溶けて混じる静けさで、いつも見とれてしまう。
その美しさを人より多く味わっている僕は空を見ながら少しだけ誇らしい気持ちになる。
相変わらず寝付けない日も多いけれど、昼の喧騒より夜の静寂を好むくらいには大人になった。
アルバイトとして勤めるこの施設はなかなか広い。
だから早朝班で分担して清掃を行う。
浴室の洗い場まわりを担う「カラン」、床をデッキブラシでひたすらこする「ブラシ」、お湯を抜き浴槽を洗う「ガン」、脱衣所をととのえる「ロッカー」の四つにわかれる。
そして新人は「まずは基本から」ということで「カラン」を担当するのがここの決まりだ。
「最初は覚えること多くて大変かもしれないけどがんばってね」
指導してくれることになったのはベテラン女性の小泉さん。
両ひざにはバレーボールで使うような分厚いサポーターをはめている。
中腰になって作業をしていると疲れるうえに腰を壊すから膝をついてやったほうがいい、というベテランらしい知恵であった。
でも周りを見渡しても誰もサポーターをしていない。
きっとこれは小泉オリジナルなのだろう。
「みんな笑いますけどね、本当に腰をやられて辞めていく人がたくさんいるんですよ」
小泉さんは清掃前後のストレッチを欠かさない。
毎朝スクワットもしているそう。
清掃を続けていくために本気で腰を鍛えているのだ。
スポーツ選手がケガや故障と隣り合わせであるように、清掃員もまた腰に時限爆弾を抱えている。
小泉さんがバレーボール選手に見えてくる。
「カラン」はまず下準備として、浴室の排水溝をタワシでこすってきれいにする 。
シャンプーやボディソープを乗せるトレイも洗ってぬめりを取る。
そのあとからが本番で、28席ある洗い場のシャワー、蛇口、台座、壁、鏡の順で丁寧に磨いていく。
それらが済んだら、椅子や洗面器、ゴミ箱、手桶など小物類の掃除にうつる。
これを男湯と女湯それぞれで行う。
「排水溝は汚れがしつこいのでタワシを使って、鏡は傷をつけないようにこの柔らかいスポンジで、椅子はアカスリタオルがいちばん洗いやすい」などと小泉さんの説明を受けながら、全工程を、実際に手を動かしながら覚えていく。
本当に覚えることが多くて混乱する。
それにしても夏の浴室は熱い。
あっという間にTシャツも短パンも汗まみれになる。
汗はタオルでぬぐっても絶えず溢れ出てくる。
メガネは濡れて視界が悪い。
ふと舐めた唇は塩の味がして余計に喉が渇く。
排水溝から立ち上る嫌なにおいが鼻につく。
清掃をひと通り終えたあとがまたややこしい。
椅子はその色によって定位置があり、二列ある洗い場のうち、壁側は水色、お風呂に面した側は黄色と決まっている。
シャンプーやボディソープもトレイ上での並び順がある。
手桶にいたっては、内風呂のへりに一個、水風呂に三個、露天風呂に二個など場所と数をセットで覚えなくてはならない。
さらにそれらは男湯と女湯で異なるのだから厄介だ。
「写メを撮っておいたほうが覚えやすいですよ」と小泉さんは言う。
ガラケーを取り出すことが恥ずかしくて「そうですね」と曖昧に返事をする。
「まだガラケーなの」と周囲に突っ込まれるたびに、このガラケーが壊れたらスマホに換えると言いながら5年が経った。
時代には乗り遅れてしまったけれど、それはそれでいい。
こうなったらガラケーの最期を看取るつもりでいる。
最新のものを積極的に摂取したほうが新鮮に生きられるのだろうけれど、僕はやがて人から見向きもされなくなっていくもの、人々の記憶から消えてしまうようなものをしっかりと見ていたい。
最近、温浴施設の閉店が相次いでおり景気は良くない。
だから僕はこうして清掃をしながら、忘れがたい記憶として体に刻んでおきたい。
3時間の清掃を終えて脱衣所で着替えていると主任に声を掛けられた。
「これから編集部でしょう。水風呂に入っていったらどうですか」
主任と一緒に裸となって浴室へ入る。
朝の光のにおいがする。
さきほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った清潔な景色がそこにあった。
シャワーで乾いた汗を流してから水風呂に浸かる。
労働によりいつもより高くなっていたであろう体温がみるみるうちに下がっていくのを感じる。
気持ちいい。
見上げた天井が、あの頃と同じようにグニャリと歪んだような気がした。
「地獄って、あると思いますか」
主任に訊いてみると間髪入れずに答が返ってきた。
「そんなもの、ないですよ。だって今いるこの世界こそ地獄じゃないですか」
戦争だったり自然災害だったり世界中の人々が苦しんでいる現実こそ地獄そのものだというのが主任の考えだ。
確かにその通りかもしれない。
人は大なり小なりその人なりの地獄を生きている。
生きるのって楽じゃない。
「こんなはずじゃなかった」日々を「でもこんなもんか」と深夜にラーメンを食べながらいろいろ飲み込んでいる。
仕事ひとつとっても、賽の河原で石を積むようなものだ。
どうせ鬼に崩されると知っている。
でも鬼がいつか飽きるその日まで石を高く高く積み続ける。
すでに地獄にいるのなら、そのつもりで生きればいいだけだ。
[高石智一(追っかけ漏れ太郎)プロフィール]
(撮影/杉原洋平)
1979年、千葉県生まれ。週刊誌・書籍編集者。雑誌は主に週刊SPA!、担当書籍は『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ)、『夫のちんぽが入らない』(こだま)、『死にたい夜にかぎって』(爪切男)など。趣味はサウナ。
Twitter : @takaishimasita