【SPA!高石智一の清潔な人々/第3回】うん
排水口の蓋をめくったら、うんこがあった。
一度目をそらして立ち上がり、浴場を見渡してみる。
ここは僕が働くスーパー銭湯だ。
時刻はまだ朝6時。
窓の外はうっすらと白んでいて夜の静けさを引きずっている。
どこからか秋の涼しい風が吹き抜けていく。
うだるような暑さがもう遠い過去のことのように思えてくる。
今日も仕事を終えたらいつもの汚い中華屋へ行こう。
そこでまたいつもの肉野菜炒めを食べるのだ。
なんてことを考えながら排水口に視線を戻してみる。
やっぱりうんこだ。
消えているわけがない。
これは現実なのだから。
洗い場の下にはいくつか排水口がある。
配管にゴミが流れ込んで詰まることがないように、円形の目皿で蓋をしている。
さらにその上から正方形のカバーで覆っている。
例えば人の毛だったり噛み捨てられたガムだったり、ゴミは四角いカバーを開けたところ、つまり丸い目皿の上にたまっている。
やつもそこにいた。
一つ、二つ、三つ。
数えてみると、こげ茶色の塊が三つ。
それぞれがシャウエッセンくらいの大きさである。
臭いをおそれて口呼吸に切りかえるが、肺に臭気を取り込むのもよくないな、と結局は息を止めることにした。
手にはビニール手袋をはめている。
排水口にたまったゴミを手づかみで捨てるために、いつもそうしている。
でも今日はうんこを掴まなくてはならない。
ビニール手袋をしているとはいえ、触れればその感触が伝わってくる。
できれば知らない誰かのうんこの感触なんて知らずに生きていたい。
だから僕は親指と中指で挟むように、それはジェンガを引き抜き積み上げる慎重さでやつに挑むのだ。
そっ、と持ち上げると、握り方があまい寿司のシャリのように崩れていく。
ゴミ入れにと用意していたレジ袋をポケットから取り出し、素早くキャッチする。
それを三回繰り返す。
あとは目皿にこびりついた茶色もブラシできれいに擦り取る。
いつも以上に時間がかかるし精神的にもくるものがあった。
清掃バイトを始めてから3か月が経つ。
これまでずっと天敵は人の毛だと思っていたけど違った。
人糞だ。
お願いだからうんこしないでください。
休憩時間、浴槽の淵に腰かけて休んでいると、ベテランの女性清掃員・小泉さんに話しかけられる。
「もう仕事は慣れましたか」
「はい、だいぶ慣れました。でも……今日うんこがありました」
「あ~、出合っちゃいましたか」
「ええ、あの排水口のところに」と洗い場のほうを指さす。
小泉さんは「男湯はね、たまにあるんですよ」と窓の外に顔を向けて遠くを見ている。
男湯では老人が漏らしてしまうこともあるらしい。
女湯では、たまに子供がしてしまうくらいで、めったにないそうだ。
老人も子供も気分で生きているように思う。
似た生き物なのかもしれない。
「でもね、今日はきっといい日になりますから。”うん”がついたんだと思って、ね、がんばって」
小泉さんはそう言って去っていった。
確かにそうだ。
朝から汚物を処理したのだ。
今日はもうこれ以上嫌なことはない。
あっては困る。
“うん”はいつも意識して生活している。
うんこではなく“運”のほうだ。
運は無駄に使わずに、ここぞというときに使いたいと思っている。
だから、常に運をためることを考える。
編集者として勤める会社のビルの近くに公園がある。
取材や打ち合わせなどで外に出る用事が多い日は別として、一日中オフィスにいるような日は息苦しさを覚えるたびに公園に向かう。
主に三つの公園を、そのときの気分によって使い分けている。
公園に共通しているのは、どこも必ずゴミが落ちているということ。
煙草の吸い殻。
コーヒーの空き缶。
コンビニ弁当の容器やおにぎりの包装フィルムが多い。
オフィス街特有のそれらを拾い集めてはゴミ箱に捨てている。
公園を使わせていただいている身としての感謝の気持ちもあるにはあるが、運をためるつもりでやっている。
偽善だろうと、やらないよりはマシだ。
先日、錦糸町の黄金湯に行った帰り道、錦糸公園沿いの歩道でSuicaを拾った。
交番に届けよう、と思って駅に向かって歩いているうちにそのことを忘れ、編集部に持ち帰ってしまった。
会社から近い、浜松町の交番でもいいか、とも考えたのだが、落とし主が錦糸町の住人かもしれないと考えをあらため、翌日用事もないのにまたそこを訪れ交番に持っていった。
運をためるチャンスを最大限に生かした一例だ。
その逆もある。
運を使わないためには当たり付きの自販機を避けるべきだ。
気づかずに当たり付きの自販機でものを買ってしまった場合はデジタルの数字を見つめながら「当たらないでくれ」と願うしかない。
また、好物ゆえにどうしても買ってしまうガリガリ君だって、本来ならば買わないほうがいい。
仮に当たりを引いても、ガリガリ君をもう一本もらうつもりはない。
運にこだわるようになった原体験がある。
それは中学生の頃、夏祭りの会場でスーパーファミコンを当てた翌週だった。
放課後の部活を終えて家に帰る途中、自転車に乗って目をつぶり、急な坂道を無事に下れるか試してみたくなった。
スーファミを当てるくらい運がいい僕ならきっといける、という妙な自信があった。
でも派手に電柱にぶつかり自転車から投げ出された僕は右膝を六針縫う傷を負った。
病院から家に帰るとなぜか父が笑っている。
「何がおかしいの?」と訊くと、「ファミリーコンピュータの代償だな」とさらに笑った。
運がいい人間なんていないのだ。
結局この世はプラスとマイナスで出来ている。
運を使い切ったら不運に見舞われる。
だから死なないように運を持っていなくてはならない。
そのときに僕は学んだのだ。
新人漫画編集者が主人公の『重版出来』なる漫画がある。
黒木華主演でドラマ化もされており、漫画・ドラマどちらも泣ける名作だ。
その中に登場する出版社の社長は、必要最低限の生活を送りながら、“ベストセラーを生むため”に運をためている。
僕は「いいことあるといいな、変な死に方したくないな」程度の意識の低さで運をためていたが、『重版出来』を読み、目的をもつことの大事さを知った。
運はただためるのではない。
使いどころも大事なのだ。
宝くじを当てるより本を当てたい。
そのために僕はこれからも運をため続ける。
浴室の清掃を終えて、タイムカードの退勤を押したあと、主任と一緒に水風呂に浸かる。
主任は以前、老人がうんこをしている、まさにその瞬間を目撃したことがあるらしく、「地獄絵図だった」と苦い顔で過去を振り返っている。
また、サウナ室の入ってすぐのところで盛大に脱糞した客もいたようで、「糞の面積が広くて飛び越えられず、サウナ室から出るに出られない人がたくさんいた」という話には思わず笑ってしまった。
実際を知る主任は笑っていなかった。
編集部を抜け出して、銭湯で気分転換をはかっていたある日のこと。
サウナ室の床を這う小さな蜘蛛を見つけた。
サウナを好きな蜘蛛なんているのだろうか。
いや、あやまって入り込んで出られなくなってしまったに違いない。
右手で蜘蛛を追い立てるようにして、左手にそれを乗せて外に出る。
そして露天風呂の隅に置かれたモンステラの植木鉢に放してやる。
こうしてこつこつと運をためる。
ベストセラーをよろしく。
あとついでに僕が地獄に落ちたら蜘蛛の糸もよろしくたのむ。
[高石智一(追っかけ漏れ太郎)プロフィール]
(撮影/杉原洋平)
1979年、千葉県生まれ。週刊誌・書籍編集者。雑誌は主に週刊SPA!、担当書籍は『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ)、『夫のちんぽが入らない』(こだま)、『死にたい夜にかぎって』(爪切男)など。趣味はサウナ。
Twitter : @takaishimasita