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【SPA!高石智一の清潔な人々/第7回】ばね

ツイッターを見ると、そこにはたくさんの虹が並んでいた。東京のさまざまな地点から切り取られた虹を見て、朝から降り続く雨がやんだのだと知った。

 

編集部にこもり、ひたすらゲラ(原稿を試し刷りした校正紙)を読んでいた。ご飯を食べることも、窓の外を見ることも忘れていた。席を立ち、喫煙室で灰色の煙を吐き出しては、きれいな虹を見せてくれた投稿に一つずつ「いいね」を押していく。透明のハートが赤くフワッと染まる瞬間、僕はあたたかい気持ちになる。

誰かきょうの僕の仕事ぶりに「いいね」を押してくれないだろうか。そんな不純な動機で「疲れた」とツイートするのを、すんでのところでやめて席に戻る。まずは自分で自分を「いいね」と思えるところまで働こう。再びゲラにかじりつく。

ただ、思い通りにいかないのが仕事というもので、一度手放してしまった集中力はどこかへ行ったまま戻ってこず、「いいね」どころか「だめだね」なペースのまま時間切れとなった。

 

翌朝の清掃バイトに備えるべく、バイト先の最寄りのカプセルホテルに入る。いつものサウナ室で、誰もいないのを確認してから、「はあ~」とため息を声にする。こんな日でも、腕に浮かぶ汗のひと粒ひと粒はやかましいテレビを反射してきれいだった。

 

*  *  *

 

まだ車のヘッドライトがまぶしくて冷たい夜明け前。朝五時半、スーパー銭湯に着くなりティーシャツと短パンに着替え、清掃の準備に取り掛かる。バケツにブラシ、雑巾や洗剤などの清掃用具が所狭しと置かれた倉庫のなか、壁に貼られたカレンダーの、ある日付に目が留まる。

〈武藤さん、ありがとうございました!〉

おとといの日付のところに赤ペンで書かれている。武藤さんは、これまでに何度もペアになったことがある、僕よりも半年ほど長く働いているおばちゃんだ。彼女に何かあったのだろうか。近くで清掃の準備をしていたバイトリーダー・小泉さんに聞いてみた。

「ああ、武藤さんね、その日でやめたのよ。ばね指になっちゃったみたいで」

小泉さんは右手のこぶしを左手で包むようにして、「指が開かなくなっちゃったんだって」と付け加えた。

「ほんと、まじめな人ほど体を壊してやめちゃうのよね。だから体にはくれぐれも気をつけてね。ほどほどにね。あとストレッチ。ストレッチ大事よ~」と小泉さんは早口で言い、倉庫を出ていった。

 

ばね指とは、手を酷使したことが原因で起こる指の腱鞘炎で、「弾発指」とも呼ばれている。腱鞘がはれて痛みが生じ、曲げ伸ばしの際に指がばねのように撥ねるようになる。症状が悪化すると、指が曲がったまま、あるいは伸びたまま動かせなくなるそうだ。ちなみに、それが起こりやすいのは親指と中指らしい。

武藤さんは主に洗い場、カランの清掃を担当していた。蛇口をはじめ、鏡や石壁、洗面器や風呂椅子などをタワシやスポンジ、アカスリタオルを使い分けて洗うのが「カラン担当」だ。手に力をこめる動作が多い持ち場ゆえ、ばね指になるのも仕方がなかった。ただ、武藤さんが小泉さんの言うように「まじめ」だったかというと、そうではない。僕からすると「上手にサボる人」だった。

 

「あまり早く終わると別の場所を手伝わなきゃいけなくなっちゃうでしょ。だからそんなに急がないでね」

武藤さんはよく、仕事を急ぐ僕のところにやってきては、小声でそうつぶやいた。

定刻より早く持ち場の清掃を終えた人は、別の人のところを手伝うことになっているのだが、武藤さんはそれがどうも嫌らしかった。武藤さんは自らの仕事を早く進めすぎてしまったとき、「ちょっとお水」「ちょっとトイレ」と持ち場を離れて、絶妙な時間調整をしていたのを僕は知っている。また、人に何か頼まれごとをしたり、仕事に新たな工程が加わったりすると、見るからに嫌な表情をする。とてもわかりやすいおばちゃんだった。眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げるプロだった。

だからといって、不真面目と言うほどでもない。仕事はいつも効率的かつ迅速で、同じ動きを繰り返すさまはまるで機械のように正確だった。ちゃんと働いた分、ちゃんとサボる。つまり足し引きゼロの、ちょうどいい人だった。

 

「そろそろ椅子やりましょうか」と武藤さんの合図を受けて、風呂椅子の掃除に取り掛かる。洗剤を薄めた水にくぐらせたアカスリタオルで、椅子を九十度ずつ回転させながら四本の脚に沿って磨いていく。表が済んだら椅子を横に寝かして、また九十度ずつ回転させて裏側を洗う。それをひたすら繰り返す。

少し離れたところで、僕の倍のペースで風呂椅子を洗い上げていくロボットがいる。武藤さんはこちらに背を向けたまま、「普段はなんの仕事をしてるの」と聞いてきた。「出版社で週刊誌とか作ってます」との答えに彼女は「ふ~ん」と興味を示さなかったので、「武藤さんは他に何かお仕事されてるんですか」と話を切り替えた。

「こことは別にホテルの清掃もしてるの」

「だからお仕事早いんですね。もしかしてそっちがメインですか」

「う~ん、ホテルはもう長いけど、どっちが本業とかでもないかな」

武藤さんは二か所の清掃バイトを掛け持つ清掃のプロだった。かつては、なんと三か所を掛け持っていたこともあるそうだ。

「でも、なんでここで働くことにしたんですか」

「まあ、家が近いから」

「ここが好きとか……」

「別に」

「普段ここにお風呂に入りに来たりは……」

「しないしない」

即答だ。仕事も早けりゃ返事も早い。しかもすべて正直に答えてくれる。もしかしたら噓の付き方を知らないのかもしれない。

「でも、掃除するのは性に合ってるかも。きれいになった!って結果がすぐ出るの、なんか気持ちいいじゃない」

そんな武藤さんが、ばね指でやめてしまった。ホテルのほうの清掃もやめたのだろうか。だとしたら次は何をするのだろうか。もう会うこともなければ、確かめようもないけれど、またどこかで、ちょうどよく働いていたらいいなと思う。

 

「そろそろ休憩しましょ~」と誰かの声が浴室にこだまする。タワシをバケツに放り込み、両手を上に背伸びする。

浴槽のへりに腰掛け、冷え切った足をあつ湯に浸けて温めながら休憩を取る。膝の上で、両手をグーにしたりパーにしたり、ちゃんと開くことを確認していると、小泉さんが「はい、どうぞ」とサクラ味のお菓子をくれた。ひと口で食べた。

「お仕事は慣れましたか」と小泉さんに聞かれるのはこれで何度目だろう。口の中の塩気を唾と一緒に飲み込んで、「みなさんについてくので精一杯です」と正直に返した。「ここは好きですか」と唐突に聞かれ、「はい、好きです」と答えながら、どうしても武藤さんのことを考えてしまう。

 

いま働くこの場所は、地元の人たちに愛されているスーパー銭湯だ。だから客に応える従業員も、小泉さんのように「ここも、ここで働く人もみんな好き」な人たちばかりなのだと思い込んでいた。でも、みんながみんなそうではない。武藤さんは「別に」というスタンスでやっていたのだ。

僕はサウナが好きで清掃員をしている。本が好きで編集者をしている。でもずっと同じ場所にいられるとはかぎらない。そこれそ、ばね指になって清掃ができない体になることもあり得るし、心を病んで編集業を続けられなくなる可能性だってある。ただ、好きなものがあるかぎり、また立ち上がり、他にも居場所を見つけられるような気がするのだ。好きなものがあることの強さって、そういうことなのだと思う。世界を一歩でも広げようとするとき、背中を押してくれたのはいつも自分が好きな何かだったから。

武藤さんにとって、それはもしかしたら掃除なのかもしれない。掃除のように、すぐ目に見えて結果がわかる他の何かかもしれない。だからきっと、彼女はまたどこかで何かと清潔に向き合うのだと思う。

 

掃除をしたらきれいになった。ご飯を食べたらお腹が満たされた。いつもより早く寝たら目覚めがよかった。窓を開けたら気持ちのいい風が吹いていた。そんな小さな達成感を積み重ねられたなら、「だめ」な一日も、きっと「いいね」と光るのだ。

 

*  *  *

 

清掃を終えて、最寄駅まで来た道を帰る。手がいつも以上にガサガサであることに気づき、ニベアクリームを手に揉み込みながら歩いた。ニベアはどこかなつかしい、たとえば母のような、僕に手を差し伸べてくれた人のやさしいにおいがする。もう会えない人のことを考えると、悲しみの穴が口を開け、そこに吸い込まれそうになるけれど、僕はその人がくれたものを大事にしなくてはと思い直して穴をふさぐ。

視線を手のひらから前に向けると、国道沿いの標識は目に飛び込んでくる。

徐行運転。

衝突注意。

まだ朝だけど、きょうはもう十分働いた。のんびりいこう。

 

高石智一

仕事の帰り道、横断歩道の手前でカップルがキスをしていた。老いたせいか、最近はそれも「いいね」と思う。

 


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[高石智一(追っかけ漏れ太郎)プロフィール]

高石 智一

(撮影/杉原洋平)

1979年、千葉県生まれ。週刊誌・書籍編集者。雑誌は主に週刊SPA!、担当書籍は『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ)、『夫のちんぽが入らない』(こだま)、『死にたい夜にかぎって』(爪切男)など。趣味はサウナ。

Twitter : @takaishimasita