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【SPA!高石智一の清潔な人々/第8回】穴

 編集部に向かう道すがら、前方からニタニタと笑いながら上司が近づいてくる。僕はたまらず「なんですか」と声をかけた。
「いや、なんか不審者っぽいというか、ホームレスみたいな恰好だなって」
 上司は嫌な笑みを顔に貼り付けたまま言った。
 僕は「あなたこそジーンズの下手くそなロールアップを即刻見直したほうがいい」という言葉を唾と一緒に飲み込み、「これ、百年前の服なんです」と大人の対応をする。そこから会話が弾むわけもなく、彼は駅に、僕は会社にと、反対方向に別れた。
 春の西日に目を細めると眉間にしわが寄る。
 歩きながら、あれはもしかして冗談のつもりだったのだろうかと考える。でも冗談にしては面白くない。むしろすべっている。考えれば考えるほどむかついてくる。
 編集部の席に腰を下ろすなりケータイを開き、彼の登録名を「ロールアップ大爆発」に変えた。ささくれ立った心を無理やり鎮めた。

 僕は百年前の服を好んで着ている。フランス古着専門店に通うようになって五年が経つ。
 サンタ・マリア・ノヴェッラのポプリが甘く香り、ジャンゴ・ラインハルトのジャズが静かに流れる店内には、19世紀後半から20世紀初期の古い衣類がたくさん吊るされている。金髪を腰の辺りまで伸ばした店主は、まるで神父のような出で立ちだ。彼は目の奥を輝かせながら服を手に取り、「これはですね」と、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
「家畜商の仕事着は、動物の毛がつきにくく掃いやすいように、細い糸で高密度に織られたリネン地で作られています」
「仕事用とフォーマル用の服を分けて持てるほど裕福ではなかった農夫たちは、スーツのようなセットアップで農作業をして、そのままの恰好で冠婚葬祭に出ていたそうです」
「料理人のジャケットもパンツもだいたい千鳥格子柄なのは、調理中の染み汚れが目立たなくて済むからなんですよ」
 炭鉱夫、農夫、家畜商、料理人、消防士、郵便配達員――それぞれが、それぞれの職務に適した服を身に着けていた。機能美という言葉はこのためにあるような気がした。
 フランスが高度経済成長期に突入して、衣類の大量生産が始まるのは1950年代。それ以前の労働者階級の人々は、現代のように飽きたから買い替える金銭的な余裕がなかった。だから、穴があいたら糸を重ねて繕い、破れても布を継ぎ足したりと服を大事にした。
 僕はその、たくさんの手直しが入った服に目を奪われた。刺繍のような修繕痕。模様に見える油汚れ。絵画となった継ぎはぎ。日に焼けて色褪せた生地も、あいたままになった無数の穴も、個性として美しいと思う。

* * *

 きょうも百年前の服に袖を通す。ひんやりと冷たい布に肌が触れると、自らの背筋が伸びるのを感じる。フランスはパリの繁栄を支えた名もなき労働者たちに思いを馳せる。僕は本をつくり、風呂を掃除する。名もなき労働者として、この世界のひとつの歯車になる。

「日替わりのお湯、抜いてもらっていいですか」
 バイト先のスーパー銭湯に着くやいなや、主任から仕事が降ってくる。お湯を抜くのは本来、社員である主任の仕事だが、僕はこの作業が好きなので文句はない。「よろこんで」と声には出さないけれど、よろこんで引き受けている。
 1メートル弱の金属の棒を、浴槽の底のゴム栓に引っ掛けて垂直に持ち上げる。ゴポッと栓が抜けると、お湯が一気に吸い込まれていく。湯舟が空になったら、まずは側面を、続いて底をブラシでこする。ブラシを前後させるたびにタイルがザリザリと鳴く。仕上げに、バケツで汲んだ水を何度も叩きつけるようにして泡を洗い流す。ザパーン、ザパーンと水がタイルを打つ。清潔な音が耳に心地良い。
 機械室に入り、スイッチを1か所ひねってタンクにお湯を溜める。10分たったら、また別のスイッチを捻って開栓し、湯舟にろ過したお湯を流し込む。ゴム栓で穴をふさぐと、あっという間に真新しいお湯で満たされる。

 朝のまだ若い光を反射してきらめく湯舟を、腰に手をあて満足げに眺めていると、ロッカー担当のおばちゃんに話しかけられた。
「このまえお渡ししたプリント、どうでしたか」
 前回の清掃時、中野さんから「清掃マニュアル」と書かれた六枚のプリントを手渡された。持ち場ごとにやるべきことが詳細に手書きで記されており、覚えの悪い僕は大変助かっている。だから、「覚えやすいしありがたいです」と思ったままを答えた。中野さんは胸に手をあて、「あ~、それならよかった~」と安堵の表情を浮かべた。
 でも、まだ何か胸につかえたような顔をしている。「どうかしましたか」と話の先を促すと、中野さんは眉を八の字にして一気に喋った。
「なんかね、主任のところに清掃スタッフからクレームがあったみたいで。『変なプリントを配らないで』とか『清掃と関係ないことが書いてある』とか。誰なのかは教えてくれなかったんだけど、何人かいたらしいのね。だから、高石さんはプリントをどう思ったのか気になって、聞いてみたんです」
 確かにプリントは、本題に入る前の「まえがき」が少々長い。例えばそこには、「仕事も人生も自分次第♡」と題して、
・ミッション(使命)――それは、お客様のために清掃を行い、快適な環境を創造すること。
・ビジョン(構想)――それは、しっかり計画を立て、タイムスケジュールにそって効率化をはかること。
・バリュー(価値観)――それは、「お客様のために! みんなのために!」という意識を共有すること。
 などの字が躍る。ほかにも、「体力・気力・集中力を鍛える」「筋力は自分を守る」「賢く働く人は知っている」など非常に前向きな言葉が並んでいる。その思想色の濃さや明るさには思わず目を瞑ってしまったが、間違ったことは書かれていない。主任にクレームを入れるほどの内容とは思わなかった。
「でも、こうして一人でもありがたがってくれる人がいるのを知れてよかったです。ありがとうね」
 中野さんはそう言うとバケツを二つ持ち上げ、「よっこいしょういち~」と足早に去っていった。

 清掃終了後、主任から「前にも宗教のパンフレットを配って問題になったんですよ」と聞かされた。中野さんはある新興宗教の熱心な信者らしい。そのことを知るスタッフからしたら、あのマニュアルは胡散臭いものだったのかもしれない。
 主任は、サウナ室の扉を指さして言う。
「あそこのドアキャッチャー、ガムテープでぐるぐる巻きになっているでしょう。最近壊れたんですよ。あと休憩椅子の背もたれもしょっちゅう割れるので、ガムテープで応急処置します。人がよく使うものからダメになっていきますね。露天の床の石も、人が頻繁に歩くところから剥がれていきます。はい、ではここで問題です。このスーパー銭湯でいちばん壊れやすいもの、な~んだ?」
 いきなりクイズを出されて驚いたが、そこは冷静に「風呂桶ですか」と返す。「ブッブー」。不正解だった。
「いちばん壊れやすいのは、人間です」
 主任は目に狂気を宿したまま続けて言う。
「本来、人間は孤独であるのに、その根本を忘れたとき、脆くなるんです。中野さんは『スタッフのために』『良かれと思って』って言いますけど、そうやって喜ばせようとした結果がこれですよ。孤独であることを忘れ、関わった人に期待するから、反応がイマイチだとショックを受ける。すべては自分のためと思ったほうがいいです。自分のためにやったことなら、どんな結果も受け入れられるでしょう」
 人は孤独ではいられない。このアルバイトしかり、どんな職業でも人と一切関わらずに働くのは難しい。でも、人を過度に信じると、裏切られたときのダメージは大きい。
「ただ大事なのは、人間は壊れても、それを直すことができるということです。どんなに不格好でも、それはいい味になりますよ」

 百年前のフランスでは、服にあいた穴をふさぐとき、「ダーニング」という手法を使った。糸を縦横に、織物のように渡して穴や擦り切れを繕う、ヨーロッパの伝統的な修繕方法だ。また、「刺し子」と呼ばれる針仕事や、布を継ぎ足す「パッチワーク」もよく行われた。現代の古着屋ないし愛好家らは、その修繕がたくさん入った服を“アートピース“と呼ぶ。
 人間だって、そうなんじゃないか。
 生きているだけで劣化するし傷も負う。仕事でミスしたり、恋人にフラれたり、大事な人を亡くしたり、努力が報われなかったり。人は無傷で生きられない。その都度、友達と遊んで気をまぎらわせたり、お酒を飲んで誤魔化したり、ぼーっと海を眺めたり、サウナに入ったり、僕らはそれぞれのやり方で穴をふさいできた。ガムテープでぐるぐる巻きにする、そんな応急処置だっていい。
 傷はいつか乾き、かさぶたになり、傷跡となる。
 その傷跡は、僕ら固有の柄になる。
 傷を負っても、心に穴があいても、それをふさぐ手立てを持っている。ボロでもなんとかやっていく。それが大人になるということだ。

 あらためて浴室を見回すと、いたるところが痛んでいる。ドアには「絶不調につきやさしく扱ってください」と貼り紙がされている。オープンしたばかりの真新しい温浴施設もいいけれど、人のやさしさでギリギリ保たれているここを僕は大事にしたい。

* * *

 編集部で徹夜中、夜の澄んだ空気を吸いたくなって近くの公園を訪れた。ベンチに腰掛け、缶コーヒーを飲みながらケータイを見ていたら、警官から職務質問を受けた。「ここで何してるんですか」との問いに「この公園が好きで」と答えたら鼻で笑われ、ポケットの中身を全部出すよう言われる。抗うのも面倒で、そのまま従った。
 警官はどこかに電話して僕の免許証を調べている。まだ時間がかかりそうだ。
 公園に植わったクロガネモチの木を見上げると、外の歩道に面した側の枝が無残にも切り取られている。
 出る杭は打たれる。個性は丸め込まれる。でもそれもまたいつか柄になる。

高石智一

 


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[高石智一(追っかけ漏れ太郎)プロフィール]

高石 智一

(撮影/杉原洋平)

1979年、千葉県生まれ。週刊誌・書籍編集者。雑誌は主に週刊SPA!、担当書籍は『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ)、『夫のちんぽが入らない』(こだま)、『死にたい夜にかぎって』(爪切男)など。趣味はサウナ。

Twitter : @takaishimasita