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【SPA!高石智一の清潔な人々/第9回】逃避

 非常口のピクトグラムが苦手だ。緑色の棒人間が白い出口に駆け込んでいる、誰もが一度は目にしたことがある、あの誘導灯だ。
 彼は一体何から逃げているのだろう。
 人か獣かロボットか。それとも天災だろうか。スプラッシュマウンテンに乗るべく並んだ行列で猛烈な便意に襲われた可能性だってある。いずれにせよ、非常口を使わなくてはならないほどの災難が降りかかっているに違いない。そんなことをあれこれ想像して、幼い頃の僕は勝手に怯えていた。
 勤め先である編集部はもちろん、早朝の清掃スタッフとして働くスーパー銭湯にも緑色の彼はいる。3Fにある浴室の、誘導灯の下の扉を開けると、外の非常階段に繋がっている。見晴らしがよく、倉庫らしき建物をひとつ挟んだ向こうには小学校の校舎が見える。児童が廊下をじゃれ合いながら走っている。
 彼らは誰にも追われていない。大人になるとできなくなる無邪気な走り方をしている。大人は追われて逃げて、立ち止まっては引き返し、一体どこへ向かうのだろうか。
 子どもたちはあらゆる教室に吸い込まれては吐き出されていた。

* * *

 サウナ室の扉は昨日の閉店後から換気のために開け放たれている。扉の下にはオレンジ色のサウナマットがうずたかく積み上げられて山になっている。汗を含んで重たくなったそれらはなかなか臭うが、息を止めて、一気に回収袋へ放り込む。
 その代わりに、リネン室から持ってきた洗濯済みのサウナマットを敷いていく。炊き立てのお米のようにふっくらと弾力があるマットは太陽の匂いがする。サウナ室の上段、中段、下段にそれぞれ六枚ずつ等間隔で、むきだしの木の板にマットをやさしくかけてやる。寒さに震える女性に自らのコートを羽織らす紳士の気分でやっている。僕はいつだってサウナにやさしい。
 回収袋を積んだ台車を押してリネン室に戻ると、おばちゃんスタッフが二人、陰口に花を咲かせていた。ドラム式洗濯機のゴウンゴウンと鳴る音をかき消すほど二人の声は大きい。
「ねえ、ちょっと聞いてよ。このまえ木村さんがわざわざ私のところに来て、『シフトずらしたので、もうあなたと一緒になることないですね』って笑うのよ。こわくない?」
「意地悪な人だからねえ。でもよかったじゃない。これで彼女の嫌味を聞かずに済むんだから」
「まあねえ。酔って電話してきては暴言をはくし、あの人、完全にアル中よね」
「酔うとスタッフみんなに片っ端から電話しているらしいね。私は電話出ないけど」
「それが正解ね。は~、木村さんのこと考えるだけで嫌な気持ちになる」
「もう掃除に戻りましょ。きれいにしてスカッとしましょ。今日もスカッとジャパンよ」
 二人は気が済んだのか、「後ろ通りま~す」「続けて通りま~す」と僕の背後をキャッキャとすり抜け、浴室に戻っていった。
 アルコール依存症のおばちゃんが清掃スタッフとして働いているのは主任から聞かされ知っていた。ただ木村さんとはシフトがかぶらず、まだ会ったことはない。だから意地悪な人かどうかもわからない。ただ、酒に溺れ、感情を人にぶつけてしまうことには身に覚えがある。僕も数年前まで、お酒に依存していた。お酒に逃げていたのだ。

* * *

 編集部がある浜松町駅で降りたら、まずはキオスクに立ち寄り氷結レモンを買う。それを飲みながら会社に向かうのが習慣だった。
 チューハイを飲むと胸のあたりがひんやりした直後、ボワッと温まる瞬間がある。灯がともるとともに、心の外側に一枚の薄い膜がはる。今振り返ればそれはただの錯覚だが、その頃は飲むことで防御力が上がる、強くなれると信じ込んでいた。
 もともとお酒は好きだった。打ち合わせと称して担当作家やライターと飲み歩くことも多かった。朝まではしごした日の終着駅はたいてい渋谷の山家(やまが)だった。
 誰かと飲むことに疲れ、一人で飲むようになった頃から一気に加速した。
 入稿直前に特集記事の方向性を180度ひっくり返す、気まぐれな上司。部数の決定権を笠に着て編集に口を出す、出しゃばりな営業部員。「人気作家に失礼な態度をとった」と根も葉もない噂を流して貶めようとする、卑劣な同僚。みんな嫌いだ、と声には出さずに氷結を愛した。深く苦々しい怒りと敵意を飲み込み、気づけばぱんぱんに膨れ上がっていた。
 仕事を早々に切り上げたある日のこと。いつもの立ち飲み屋でホッピーをやっていると、嫌なあれこれを一気に思い出し、ナカを三杯おかわりしたあたりで感情がこぼれた。
 勢い余って編集長に電話をし、「バカ、クソ、死ね」と暴言をぶつけた。
 景色が揺れる。呂律がまわらない。編集長は何も悪くない。でも感情のぶつけ先がわからない。もうダメかもしれない。バカでクソで死んだほうがいいのは自分だった。
 何時にどうやって帰ったかは覚えていない。朝起きると、名刺入れには身に覚えのない名刺がたくさん入っていた。どこで古美術商と名刺交換したのだろう。飲んだ翌朝は記憶がほとんど残っていない。だから財布に入った領収書をもとに記憶の断片をつなぎ合わせることになる。
 また、気分の落ち込みもひどい。二日酔いではない。昨晩しでかした何かを思い出して落ち込むのでもない。ただ漠然と、薄暗い海底にいるようで息苦しい。それを紛らわしたくて、また朝からお酒を飲んでしまう。もうやめるタイミングがわからない。
 酒量は日に日に増えていき、ブラックアウトする確率も高くなっていった。酒に酔い、ふわふわと宙に浮くように歩いていたつもりが、泥沼に足を取られていただけだった。
 いよいよまずいかもしれない、とアルコール依存症の専門外来の門をたたいた。複数のスクリーニングテストを受けたのちの問診で、「アルコール依存症、もしくはそれに限りなく近い状態にある」と診断された。「このまま飲み続けると入院です」とも告げられ、薬を二種、処方された。飲酒欲求を軽減するレグテクトは一日三回、お酒を飲むと嘔吐・頭痛・動悸など強い不快反応を起こすシアナマイドを一日一回。お酒を飲む代わりに薬を飲むことになった。

 あれから三年。お酒を飲みたいと思う日はたくさんあったし、今でもある。でも断酒は続けている。薬はもう飲まず、会社の机の引き出しにしまってある。それでも酒に手を付けずにいられるのは、嫌な思いをしたこと、周りにたくさん迷惑をかけたこと、お酒が原因で離れていった人、嫌だったろうに僕から離れずにいてくれる人、そういった記憶を遠ざけず、昨日のことのように保っているからだ。嫌なことは忘れたほうが健康的だし前を向ける。そう言う人もいるけれど、僕はもう何一つ忘れたくない。いいことも、嫌なことも、全部抱えたまま、後ろを振り返りながら歩いていくと決めたのだ。

* * *

 午前9時。清掃を終え、タイムカードを押しに事務室に寄ると、店長の森さんが神妙な面持ちでPCとにらめっこをしていた。ここ最近、新型コロナウイルスの感染拡大が大きな打撃となり、廃業に追い込まれる施設も増えている。森さんが通っていたサウナもつぶれたばかりだ。ここも危ないのだろうか。ふと気になって聞いてみた。
「売り上げはコロナ前の3割減くらいかな。大丈夫かどうかと言われたら大丈夫ではないです。もともと水処理や衛生設備に費用がかかりすぎて儲けが出にくい世界なので、まあ、さらに厳しい状況ですね」
 サウナがブームだと沸く昨今、客足はそこまで落ち込んでいない。ただ、恩恵を受けているかというと、そうでもない。
「ブームで増えた若い人たちはお風呂に入るだけで飲食しない。マッサージやアカスリも受けない。飲んだり食べたりしてくれないと売り上げ的には厳しいままです。全然ととのわない」
 サウナ好きのあいだでは、サウナと水風呂を交互に入り気持ち良くなった状態を「ととのう」と呼んでいる。勝手にととのうな、とは言わないし、温浴施設の経営状況を考えろ、と言うのもまた酷な話だとわかっている。でも、何かを受け取ったのなら、それは差し出してくれた誰かがいるのだ。そのことだけでも頭の片隅に置いておいてほしい。
「でも仕事が嫌だとは思ったことないんです。好きとか嫌いではなく、合うんでしょうね。勤務体系とか、おばさま相手とか、ささやかな自由とか」と森さんは笑う。この苦境に立たされても逃げ出したいと思うことはないらしい。
 好きか嫌いか、で線引きすると世界は白と黒のモノクロになる。極端を強いたり強いられる。合うか合わないか。そんな階調のあるグレーで曖昧な世界のほうがきっと生きやすい。
 僕は、サウナが「合う」。仕事も「まあまあ合う」。そういうことにする。合わないものをそっと避けて、嫌わず逃げず、ただただそこにとどまるために。お酒はたぶん、合わなかったのだ。

 外に出ると気持ちいい風が頬を撫でる。乾いた風に吹かれて揺れる川面は太陽の光を反射して一層まぶしい。
 川には一隻、「潜水調査」と書かれた小さな船が浮かんでいた。土手を降りてしばらく眺めていると、ウェットスーツを着た男性が水中に潜っては浮き上がることを繰り返し、最後に一本の旗を立てた。何の旗かはわからない。
 逃げては立ち止まって引き返す。
 水中に潜っては浮き上がる。
 僕もそうやって生きてきた気がする。
 旗が動いている。風が動いている。心が揺れ動いている。きらめく水面の上で風になびく小さな旗を、じっと見た。

高石 智一

 


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[高石智一(追っかけ漏れ太郎)プロフィール]

高石 智一

(撮影/杉原洋平)

1979年、千葉県生まれ。週刊誌・書籍編集者。雑誌は主に週刊SPA!、担当書籍は『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ)、『夫のちんぽが入らない』(こだま)、『死にたい夜にかぎって』(爪切男)など。趣味はサウナ。

Twitter : @takaishimasita