【大西一郎 ある視点/第8回】35 歳の時
横浜に引っ越して、おふろの国で働き始めて、今月で丸5年経った。
来た時は35歳だった。
35歳の時、私の周りの35歳達は男も女もみんな迷っていた。
結婚するべきか、今の仕事を続けるべきか、地元に帰るべきか、
人それぞれ事情は違うけど、たまたまかもしれないけど、なぜかみんな人生の岐路に立っていた。
迷っていたというか、血迷っていた。
迷うのは解るけど、なぜそれにしたの?という道を選ぶ人もいた。
私も端から見ればそう見えた一人かもしれない。
友達というのも変だけど、私は友達だと思っている、60代の糖尿心筋梗塞脳梗塞フル装備の腐れ縁の元上司の登さんという人がいる。
私はだいたい毎週、登さんが雇われマスターを務めるオメガというスナックに遊びに行った。
そこに行けばアイドルになれるからだ。
私が演歌を歌うとお年寄りのみなさんが大喜びしてくれる。
今もそうだけど、私は自分がそこまで歌が上手いとは思っていない。
私より歌が上手い人なんてそこらじゅうにいくらでもいると思う。
その店はとりわけカラオケ好きのマニアックなお年寄りが多く、演歌は演歌でも最新のヤツを教えてもらった。
そういうカラオケマニアのお年寄りが長年生きていらっしゃれば、「ワシの知り合いの◯◯」とか、「知り合いの知り合いの◯◯」とかいう、なんかしらの権威を持った謎の人物が必ず話に登場して、その人物に私の歌を聴かせたいとか、紹介したいと言ってくる。
「色んな人の歌聴いてきたけど君ほんますごいよ。」
「えへへ」
とか言って、私は毎週のようにスカウトされた。
信じない。
お年寄りの虚栄に満ちた世界。
何がほんとか嘘かわからない。
だいたいもういい歳だし、今から苦節何年とかきつい。
ちなみにそもそも私が演歌を好きになったのは反抗期で、演歌が嫌いな両親に対する反抗心がきっかけだった気がする。
ささやか……。
それから同年代の友達がやれミスチルだのグレイだのラルクだの、流行りの歌を歌う中、私は一人細川たかしの歌を歌うようになり、それはそれでやはり、歌手になれるんちゃうんという話になるけれど、私自身、演歌のなんたるかなんてよくわかってなくて、ただ単に真似して歌っているだけなのに、同年代の友達に私が演歌歌手になれるかどうかなんてわかるはずかないと思って真に受けなかった。
その点、「ワシも色んな人の歌を聴いてきたけど……」というカラオケマニアのお年寄りの意見は少々説得力がある気がした。
とりわけ登さんは「お前はなんで歌手にならないんだ。」とまるで私がくすぶっているかのように、いつもはがゆそうに言った。
いや、一生懸命生きてるのに。
ある日オメガに行くと、Kenjiroという歌手のポスターが貼ってあった。
営業で来たらしい。
店はKenjiroの話題で持ちきりだった。
新曲のCDをいっぱい置いて行ったから、一枚やるよと言われて、「夜のピアス」という CDをもらって帰った。
私はちょっとKenjiroのファンになった。
数日後、仕事に行くと、白浜弁の菅さんに、「あんたケンジローて知ってるか?夜のピアスのケンジロー。」と聞かれた。
「え!?知ってる!」
菅さんの知り合いのスナックに営業で来るらしい。
そこで、ケンジローと一緒に夜のピアスを歌おうというコーナーがあるから、あんたも歌えと誘ってくれた。
世間って狭いなと驚いた。
Kenjiroなんて、オメガでしか通じないと思っていたのに、まさか菅さんの口から夜のピアスのケンジローという言葉を聞くなんて……。
私は二つ返事で行くことにした。
Kenjiroの存在を知って数日後、生Kenjiroを見られることになった。
生Kenjiroはかっこよかった。
歌もよかった。
ひとしきりKenjiroが自分の歌を歌い終わると、さあみんなで新曲、夜のピアスを一緒に歌いましょうというコーナーが始まった。一緒に歌うというよりは、夜のピアスを覚えて来た人が、一人ずつ壇上にのぼって、隣でKenjiroに見守られながら歌う段取りだった。
一番で交代、二番で交代、停止、また一番から始まる。
店には夜のピアスが流れ続けた。
私の順番は最後だった。
菅さんの知り合いのマスターの後。
マスターは昔、本当に歌手になる寸前で、鳥羽一郎か誰かと競って負けた人らしかった。
マスターがすごく上手かったので緊張した。
私がKenjiroに、「緊張する。」と告げると、「大丈夫ですよ。」と優しく言ってくれたので、私は気持ちよく歌えた。
それで、その時にいろんな人に褒められた。
Kenjiroのマネージャーが名指しであのお兄さん(名じゃないか)が素晴らしかったと言ってくれた。
鳥羽一郎と競ったマスターが、「彼、普通じゃない。」と言った。
あと、何の付き添いか、大分から来た歌手のおばさんに、「歌手になる?」と聞かれた。
「歌手になる?」と聞かれたのは初めてだった。
それで「はい。」と答えたら、歌手になれるかのような問いだった。
「いやあ、ならないです。」と答えた。
でもその日、私は初めて、「そうだ、歌手になろう。」と思った。
35歳の血迷った決心。
別に紅白に出られなくても、生きていけさえすればいいのだから。
そういう人がいっぱいいることに気づいて、その一人になろうと思った。
きっと、CDを一枚出せたら満足するんだろうと思った。
オメガの常連で木田さんという人がいた。
実際会ったことがなく、よく「木田君と大西君どっちが上手いんやろうね。」と名前を聞く人だった。
木田さんは本当にCDを一枚出したサラリーマンらしい。
初めて会ったとき、「君が噂の大西くんかー。」と言われた。
私も噂の木田さんに会えて嬉しかった。
木田さんの歌の上手さはガチだった。
浜省のマネーを歌ったのがかっこよくて忘れられない。
木田さんは私の歌を聴いて「なるほどー。」と言って何か納得したようだった。
郷ひろみのマイレディーを歌ったらいいんじゃないかと言って、私がマイレディーを知らなかったので、歌って教えてくれた。
覚えると、「このマイレディーは金取ってええと思うで。」と言った。
「大西くん、安売りしたらあかんで、俺は安売りして失敗したから。」
と言われた。
具体的にはどういうことか知らないが、木田さんのアドバイスもむなしく、大西一郎は年中大バーゲンセールだ。
売り方はともかく、「自分が一銭も払わずに CD を出すこと」を一つの目標にしていたので、それがなぜかおふろの国で叶ってよかった。
今回はおふろの国で働くことになったいきさつを書こうと思ったのに、全然おふろの国にたどり着かない。
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