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【大西一郎 ある視点/第9回】教授

前回の続きです。

 

「あんた生まれ変わったら何になりたい?」
と、ある日太陽のオーナーが尋ねるので、
「えー、うーん、歌手……。」
と答えた。

そうしたら、
「歌手やったらあんた、遅ないんちゃうの、60過ぎてごっつい売れた人おったやんか、
まだいけるでー、太陽から歌手出ましたー言わなあかんなー、あはははは、いけーいけー!」
と言うので、しばし5分間ぐらい、ふわふわと夢を見てしまった。

35歳の頃、突然歌手になりたいと思った。

35歳だけど、特に焦っていなかった。
オーナーの言うように、歳をとってから売れる人もいる。
それに、私はいざとなれば10歳ぐらいサバを読む気満々だった。
25歳でいけるんじゃないかと思っていた。

とはいえ、歌手になるにはどうすればいいのかよく分からない。
とりあえず師匠を探すことにした。

なんせ、スナックに行けば必ず怪しげなスカウトを受けていたので、その中からなんとなく、
この人に連絡を取ってみようかなと思って電話をかけて、その団体の会長に紹介してもらった。

全日本音楽評論審査員会という団体の、旭十楼先生(会長)はとてもざっくばらんな楽しい人で、私のこともとても気に入ってくれたので、弟子入り、というかレッスンを受けることになった。

旭十楼先生の教えは、歌手は楽譜を貰って自分なりにアレンジした歌い方をして、それがCDになっているから、もとの楽譜とは違う。だからとにかく一度、楽譜に忠実に歌ってみて、それから自分なりにこぶしや、強弱をつけようというものだった。

とても楽しかったし、新鮮だった。

私は先生に言われるがまま、「みーなーみーアルプースー♪あおいやまーなーみー♪」
と、平坦に歌った。
それから、ここらへんでこぶし回してみようかとか、「み」は強くとか「あ」は抑えてとか、
ある時は言われるがまま、ある時は自分で勝手にアレンジした。
レッスンは個室などではなく、営業中のスナックに先生がピアノを持ち込んで、他の生徒さんとか、その団体の幹部みたいな人達とか、ギャラリーが大勢いて、ついでにそのスナックのママも、たまたま来ていたお客さんもその団体の会員だった。
私がこぶしを回すと、
「おもしろいほどこぶし回るねえー!」
「そうなんだよ、彼べつに民謡習ってたわけでもないのにすごい回るんだよ。」
と言われた。
こぶしの回し方は、本当はただのモノマネだったので、これで合ってるんだと思ってほっとした。
「こんな子どこで見つけてきたの!?君、何歳?」
と聞かれた。
「25歳です!」
と答えた。

その週、私は生まれて初めて食中毒になった。
自分が悪いのだけど、人からもらった豚足を、一週間冷蔵庫に入れたまま忘れていて、
ちょっと変なにおいがしたけど食べてしまったのだ。
近所の内科のベッドに横たわって、点滴を打たれながら窓から空を見ていた。
いい天気だった。
あんまり青い空だったので、こないだ習った歌を思い出して、
「みーなーみーアルプースー……あおいやまーなーみー……」
と口ずさんだ。(そこしか覚えてない)
春だった。

私は師匠を探すのと並行して、カラオケ大会に出始めた。
一回目、二回目は緊張して上手く歌えなかった。
出場者たちはキメッキメだった。
女性は着物かドレス。
男性は赤とか白とか、ギラギラの羽の生えた衣装を着ていた。
私はパーカーだった。
でも、みんながキメッキメの中、パーカーの方が目立つと思って、三回目もパーカーで挑んだ。
三回目は予選として、テープ審査があった。
一回目、二回目と、箸にも棒にもかからずに終わったので、テープを送って、「合格」と書かれたハガキが返って来た時は嬉しかった。
ちょうどその頃、旭十楼先生と出会って、合格のハガキが来て、今度この歌を歌うんですという話をすると、
「じゃあ今度は南アルプス(細川たかしの北岳)やめてこの歌やろう!」
と言って、私が歌おうとしていた、小林幸子の孔雀という歌を教えてくれた。
歌うと絶賛される率が高い歌だった。
2003年の歌だったので、先生が楽譜を探し出すのに苦労した。
「新曲がいいんだよ、こんな化石みたいな歌じゃなくて。」
2003年で化石……!
でもとにかくこれでエントリーしてしまったから、楽譜を見ながらここはこうでこうでとアドバイスしてくれた。
先生は、昔流しをやっていた時の話をしてくれた。
「誰も聴いてないんだよ、それをどうにかしてこっちを向かせてやろうと思ったら、もう聴こえるか聴こえないかぐらいの小さな声でモゴモゴ……モゴモゴ……っと歌ってここっていうところでグワーッ!!と行くんだよ。それで掴むんだよ。」
と語った。
それで、教えられた通りにカラオケ大会に挑んだら、優勝とか準優勝ではないけれど結構いい賞を貰えた。
キメッキメの衣装の人たちが次から次に出てきて、「俺の歌を、私の歌を聴いてくれー!」と言わんばかりの熱唱が続くと、おなか一杯になってくる。
見ている人たちも飽きているのがわかる。
パーカー姿の私の出番が来た。
三回目で慣れたのか、あまり緊張しなかった。
歌い終わって一礼して、そそくさと退場しようとしたら、客席から「ヨッ!」という声が聞こえた。
私は驚いて、その声の方向にもう一度ペコッとお辞儀をして小走りで去った。
掴んだ!と思った。
その日はたくさんの知らない人に、良かったよと言われた。
知らないおじさんに突然、
「自分、最後まで残っときや。」
と言われて、え?優勝?と思った。
賞の発表が終わってまたそのおじさんに会って。
「もっと上行くと思ったけどなあ。」
と残念そうに言われたが、私はその賞で充分嬉しかった。

結局三回ぐらいレッスンを受けた頃、私はおふろの国に行く決心をした。
最後まで悩んだのは、せっかく旭十楼先生に出会えたばかりなのに、という点だった。
行くかどうか悩んでいることも先生に相談した。

先生はとても残念がって、行ってほしくないと言ったが、でも君の人生だからと送り出してくれた。
東京に行くなら知り合いの先生紹介してあげるよ、と言って、岡千秋先生と君塚昭次先生という二人の名前を出した。
岡千秋の名前がいきなり出てきてビビったが、
「でも岡先生はぼったくりだからやめとこうか、君塚昭次先生は良心的だから君塚先生にしようか。」
と言って、激推ししてくれたのか、通常価格いくらいくらのところ、大西君に限ってはなんといくらいくら!と三分の一ぐらいのレッスン料に値切ってくれた。
ほんとに良心的。
でも結局、おふろの国に来てすぐの頃は休みがほとんどなく、君塚先生のいる埼玉まで、とても歌なんか習いに行ける気力もなくなって、一度も行かず、タイミングを逃してしまった。

それから、
「歌手になるにしろならないにしろ、指導者として生きていく道もあるんだよ。」
と言われた。
全日本音楽評論審査員会はカラオケ講師を育成する団体でもあり、講師の中でもランクがあった。
詳細は忘れたが、講師、師範、教授、審査員、評論家というようなかんじで位が上がって行き、
「本当は上に上がるには審査もあるし、お金も時間もかかるんだけど大西君は特別に飛び級で上から三番目の教授でいいよ、本当はここまで行くのに通常いくらいくらかかるんだけど大西君に限ってはなんといくらいくら!」
と、それが高いのか安いのかよくわからなかったが、とにかくその肩書は何かの役に立つかと思って、思い切って払うことにした。

こうして私は、講師としての実績ゼロで、歌謡教授となった。
大西歌謡教室と書かれた看板と、教授の証、桐の箱に入った薄紫色のバッジ、名刺、さらには団体の横浜市鶴見区支部長に任命され、その任免状等々、たくさんの立派なものを手に入れた。

そう、何を隠そう、私は、教授なのだ。

旭十楼先生には他にも秘蔵っ子、小学校6年生の、異様に影のある少女、さっちゃんがいた。
影があるのは雰囲気だけで、実際は普通の明るい女の子だった。
本当はお父さんでもおかしくない年齢なのに、さっちゃんは私をお兄ちゃんと呼んで慕ってくれて、かわいかった。
その頃、この子は一体何を背負って生きてきたのだろうかと思うような、ただならぬオーラを漂わせて、桂銀叔の「昭和最後の秋のこと」を熱唱していたさっちゃんも、今は高校生だ。
ある日ラインのアイコンがTWICEのツウィの写真になっていた。
桂銀叔からTWICEへ……韓流には違いないが、さっちゃんも年相応に、アイドルに興味があるんだと思ってお兄ちゃん的には安心した。

横浜に移る前、最後にさっちゃんに会ったとき、これは女の子なら絶対テンション上がるはずだと思って、マジョリカマジョルカの赤い香水をプレゼントした。
細長い、かわいい箱に入っていた。
それを、難波の地下街の薬局で、白衣を着た薬剤師のお兄さんに、包んで下さいとお願いした。
お兄さんは、小学校6年生の女の子へのプレゼントという、おそらく薬局であまりないであろう注文と、箱の細長い形状に悪戦苦闘しながら、とても変な風に包んでくれた。
私が悪い。
「すいませんセンスなくて……。」
「いえいえ、とんでもないです!ありがとうございます!」
と言って薬局を出た。
包み直そうかと思ったが、一生懸命包んでくれたお兄さんに悪かったのでそのまま渡した。
たとえ匂いが気に入らなくても、赤いビンを飾って置くだけできっとかわいいと思ってこれにしたが、「めっちゃいい匂い!」と気に入ってくれたので良かった。
さっちゃんは元気だろうか。

ごめんなさい、まだおふろの国にたどり着かない……!

 


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[大西 一郎 プロフィール]

大西一郎
1980年12月23日 兵庫県生まれ。
おふろの国リラクゼーションコーナーケアケア店長、サウナ歌謡歌手。