【大西一郎 ある視点/第10回】ないものねだり
(前々回あたりから続きです)
大阪の片隅でつつましく暮らす35歳バツイチ。
5年前の私は、自分のつつましさにうんざりしていた。
給料がつつましい。
家賃はつつましくない。
20代の時のほうが金持ってたのに。
なぜ。
きっとこの業界(リラクゼーション業界)にいても、もうダメなんだ。
そう思った。
増えすぎだ。
ミナミ周辺は顕著だった。
新しい店が、できてはつぶれ、できてはつぶれ……
職人たちも動き回る。
あっちの店が流行ってるらしい。
こっちの方が稼げるらしい。
そこかしこに知り合いがいて、情報が行き交う。
わりと気軽にあっちの店こっちの店と、歩き回る。
私が働いていた「太陽」は、来るもの拒まず、去るもの追わず、出戻り歓迎。
誰かが辞めたって、どうせそのうち帰ってくるんちゃう?と言って待っていたら、帰ってくる。
でもまたどっか行ってしまう。
ぐるぐると。
自分は抜け出してやる。
華麗に転職してやる。
と思った。
けど他にどんな仕事をしていいのか、さっぱりわからなかった。
わからなくて、歌手になるとかわけのわからないことを言ってみたりして、自分の心をごまかしていた。
ある日、昔勤めていた会社の女友達から電話がかかってきた。
お互い別の店の店長で、会議やなんかで時々会ううちに仲良くなった。
彼女は会社でどんどん出世して行った。
同じ時期、こんな私にも出世の声がかかったが、上手くできなかった。
管理職なんて向いてないのだ。
そこから、彼女とは逆に、私はどんどん降格して行き、最終的に会社を去った。
それから3年程経っていたが、依然仲良しだった。
東京、大阪と離れていたが、しょっちゅう電話をしたり、関西に来たら必ず会っていた。
「東京来たら?」
わりと、定期的に会社に戻らないかと誘われることもあったが、前の会社に戻るのも抵抗があったし、私にとっては東京なんて外国も同然だと思っていたので、断固拒否していた。
その日の電話はなにかいつもと違って切実だった。
「お願い!」
「ピンチなんよ!」
「助けてほしい!」
「立て直してほしい!」
「あんたにぴったりの店があるんよ!」
お誘いというより、お願いだった。
その、「あんたにぴったりの店」というのが、「おふろの国」のリラクゼーション「ケアケア」だった。
今にして思えば、あんたにぴったりという彼女の読みは正にその通りだった。
私はなぜかその話を聞いてピンときていた。
ワクワクしていた。
行くべきなんじゃないか。
ちょっとおもしろそうじゃないか。
揉む、だけじゃない、自分にしかできないことがあるのかもしれない。
リラクゼーション業界から抜け出して、華麗に転職しようとしている時に、そんな話にピンと来ている場合ではないのだけれど、もうとにかく、リラクゼーションはこれで最後にしよう、
出稼ぎのつもりで、
人生で一度ぐらいは関東に住んでみてもいいかもしれない、
私はどんどんその気になっていた。
お風呂屋さんという空間を思い出していた。
お風呂屋さんから離れて3年。
お風呂屋さんは、毎日出勤していると気が付かないが、そのお店独特の匂いがする。
同じ系列店でも違う匂いがする。
それは、壁や床に使われている建材の匂いなのか、
備え付けのアメニティの匂いなのか、
入浴剤の匂いなのか、
アロマの匂いなのか、
塩素の匂いなのか、
タオルを洗う洗剤の匂いなのか、
それらが全部混ざった匂いなのか、
とにかく、久しぶりに扉をくぐるとブワッ!と、
その頃の記憶が瞬時によみがえる。
そんな、お風呂屋さんの匂いを思い出して、心が躍った。
数日後、
「あの話、前向きに考えてるよ。」
と言うと、彼女は意外だったようだが、とても喜んだ。
私は友達が多いほうではない(というかほとんどいない)ので、その数少ない友達がどうやら本当に困っていて、ダメで元々とは思っているだろうが、頼ってくれて嬉しかったし、助けになりたいとも思った。
そして、まさかうんと言うとは思っていないだろうから、きっと驚くだろうなとも思った。
私は、人がまさかと思う選択をするのが好きだ。
それから、退職や引越の段取りなど、おふろの国入国準備は急ピッチで進んだ。
本当のことを言うと、私は大阪があまり好きではなかった。
ところが、いざ大阪を離れるとなると、急激に愛が膨れ上がった。
太陽のママや、オメガの登さんと泣いてお別れをし、東に向かう前日、これこそが一番喜ばれる大阪土産だと信じていた千鳥饅頭(どこでも売ってる)をどっさり買い込んで、一旦西に戻った。
兵庫県姫路市、実家。
準備が着々と進む中、一つだけ、全く進んでいないことがあった。
両親へのお知らせ。
息子は横浜へ行きます。
私は、とても大事なことを家族に言わない変な癖がある。
いや、大事なことだから電話じゃなくて直接会って言わないと!
とか自分の中で謎の言い訳をして、私がかつて離婚した時も、半年ぐらい言わなかった。
「あんなー、実は横浜に引越するねーん、え?いつ?うん……明日ー。」
と言う予定だった。
ところがうちの家には、横浜に親戚の家が一軒あり、そこの一家と大変仲が悪く、
当時絶賛大揉め中だった。
父、母、祖母、私の4人で食事をした。話題はもちろん、横浜一家とのバトル。
横浜一家は母の姉家族で、祖母からしたら、娘二人が戦っていることになる。
父と母が白熱する横で、祖母はどんな気持ちでいるのか気になって、おろおろした。
そんな中、自分が「明日から横浜行くねーん。」とはなかなか言い出せなかったので、
黙って行くことにした。
結局その後半年ほど、両親には、あたかも大阪に住んでいるかのように振る舞った。
最終的に、妹の旦那がFacebookで私を見ていて、まさか彼も、隠しているなんて夢にも思わなかっただろう、「え!?お兄さん、横浜にいてはりますよねー!え!?えー!?」
と口を滑らせて大騒ぎになったらしい。
ちなみに妹は私と似ていて、ある日電話で、
「あんなー、実はうち妊娠したねーん。え?予定日?うん……来月ー。」
と教えてくれた。
臨月やん。
こうして私は、隠し事と、溢れる大阪愛と、両手いっぱいの千鳥饅頭をぶら下げて、おふろの国に到着した。
当時のケアケアは確かにピンチだったが、会社が探していたのは、今をときめくアウフギーサー、当時ケアケア店長だった「五塔熱子」の代わりだった。
五塔が店長を降りて学校に行く。
熱波をやったり、サウナの中で「ケアケア体操」を敢行し、既に定期イベントも持つ人気者となっていた名物店長の代わり。
来てすぐに五塔と入れ替わりで店長になれる人。
ここで、熱波をする店長の代わりに、歌を歌う店長を連れてきたことが、今となっては自然な流れだったかのようだが、よくよく考えれば相当不自然だ。
私は熱波とは無縁だ。
ただとにかく、「ケアケア店長」という特殊な職業のあり方を、私は五塔熱子を見て学んだ。
ケアケアの制服を着て、
「いらっしゃいませー、いかかですかー」
と、ケアケアの受付で普通に仕事をしていたかと思うと、突然走り出して、ホットパンツに着替えて、カゴやらタオルやらをどっさり持ってサウナへ走って行く。
戻って来たかと思ったらまた、
「熱波!熱波!」と言って走って去って行く。
また戻って来て、制服に着替えると、ご指名のお客様が待っていて、揉む。
衝撃的だった。
あの子の代わりに自分が何をすれば良いと言うのだろうか。
ケアケアには他にも、これまた今をときめくプロ熱波師「大森熱狼」もいた。
うちの会社の元管理職で、プロ熱波師として歩き出したところだった。
週一回、おふろの国で熱波をして、熱波終わりにケアケアのシフトに入って、柔道着を着て受付に立ち、お客さんを揉んでいた。
またもや、衝撃の光景。
この二人のことは、事前にFacebookで見ていて知っていた。
あと、「井上勝正」
皇帝(当時)がいること。
「普通じゃダメなんだ。」
とは思わなかった。
「普通じゃなくて良いんだ。」
と思った。
一つ、
当時、井上勝正を筆頭に、おふろの国には、赤い、熱い人たちがいっぱいいたので、
なんとなく自分は、井上勝正と反対色を出すように心掛けた。
おふろの国に来て一か月、熱波甲子園というイベントが開催されることを知った。
「へー、こんなんあるんやなー、うちの会社(ケアケアの運営会社エーワン東京)も出るんやー。これ誰が出るん?」
「あんたに決まっとるやん。」
「え?」
という交渉を経て、私はエーワン東京を代表して、熱波甲子園に出場することになった。
(この年、五塔、大森はソロ部門出場)
私は極度の関西シックにかかっていた。
コテコテ関西なものが恋しくて仕方がなかった。
住んでいた時は、あべのハルカスも、吉本新喜劇も、何の関心もなかったのに。
頭に通天閣のプラモデルを突き刺して、着物を着て、通天閣の歌姫、「オーロラ輝子」になりきって、悲しい顔をして「夫婦みち」を熱唱し、「世間に負けたらあかん!」とかなんとか叫びながら初めてタオルを振った。
理由もなく常に悲しい顔をする、大西一郎というキャラの基本スタイルの原型ができた。
これはけっこういろんな方に褒めて頂いた。
ただ、私は、関西に帰りたいと思うだけだった。
最近、気づいたことがある。
あれが欲しい、これが欲しい、あそこに行けば手に入るのではないか、いや今度はあそこに……。
と、くねくね歩んでこんなところまで来たが、
私は常にどこかに帰りたいと思っている。
ただ、それが故郷なのかと考えると、そうではない気がする。
じゃああの町なのか、この町なのか、どれも違う気がする。
じゃあどこに帰りたいのか。
この帰りたい気持ちは何なのか。
私はただ、過去に帰りたいだけなのだ。
帰りたいのは場所ではなく、時間なのだ。
通天閣を見たって、姫路城を見たって、故郷の山や、川や、田んぼを見たって、懐かしい気持ちにはなるだろうけれど、あの頃とは違う。
一緒に学校から帰った友達もいない。
いたとしても、学生服を着て、ヘルメットをかぶって、自転車に乗っていない。
教室にクラス全員座ることもない。
犬の散歩をしていたアル中のおっさんもいない。
実家で可愛がっていた猫ももう死んでいない。
具体的にどこに帰りたいのかも示さずに、ただ帰りたい帰りたいと言い続けるのだ。
本当に帰りたい場所は、今はもうどこにもないのに。
仮にタイムスリップしてあの頃に帰れたとして、じゃあ今度はあの頃がいい、この頃がいい、
とか思うのだろう。
歳を取れば取るほど、帰りたいあの頃もこの頃も増えて、遠くなって行く。
もし私がおふろの国を離れたら、今度はおふろの国に帰りたくて帰りたくて仕方がなくなるに違いない。
私は未来を見て生きることができない。
別に思い出したくもない過去ばかり見ている。
せめて今をしっかり見て生きていないといけないなと思った。
大西一郎(40)
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